結論から言うと、ねねちゃんは一人っ子ということが、ほぼ確定した。
家族会議をして、また大きな決断をすることは、ゼロではないかもしれないけれど
現時点での、結論としては、そうなった。
同時に、いろいろなことを考えていた。
悲しくないかといったら、すごく悲しいし、残念。
でも、その感情を噛み締めていいかといったら、僕は噛み締めてはいけないと思っていた。
僕よりも、ずっと真剣に頑張ったママがいて、
僕とママが大事なお話を先生としているときに、何度も託児所で我慢してくれていたねねちゃんがいて、
その状況で、「僕が一番悲しいです」という表現は、違うと思う。
帰りの車の中で
同時に沸き起こる、いくつかの感情のカードを、心のテーブルに並べて
1枚ずつめくりながら
「あー、僕には、守るべき人がいるんだな」と、思っていた。
でもきっと、
お互いに言わないけれど
「自分が悲しいんだら、相手はもっと悲しんでしまうかもしれない」と
思っていたのかもしれない。
「自分よりも頑張ったのは、あなた」
そうやって、お互いに思っていた気がする。
ママと、帰りの車の中で話していた会話で
印象的だったフレーズがある。
「最短距離で決断した」
これって、すごく大事なことだと思う。
やると決めたら、全力をかけて、そこに集中した。
その決断を後押しするかのように、いろんな条件が整っていった。
そして、
やめると決めた時に、一気に退却をした。
この、攻め方と引き際は、
確かに即断即決だったと思う。
多分、お互いに迷わなかったのは
何度も話し合ったから、というのもあるけれど
「納得」していたから、じゃないかなと思う。
自分たちで決めた。
それに対して、全力で向き合った。
結果がどうであれ、残念だけれど、納得はしている。
そう考えると、人生は、納得を探す旅なのかもしれない。
「世の中から、不幸せを消そうとするものは、全ての不幸せと向き合うことになる」
というような、格言がある。
消そうとするほどに、その感情に向き合わなければいけなくなる。
だから、人生は、不満足を解消しすぎてはいけないと思っている。
ハングリー精神は、必要だけれど。
成功も、失敗も、
幸せも、不幸もあるけれど
自分の中で処理できる感情って
「納得」だと思う。
そのための行動が、「丁寧」であって。
周りが、
「それは、幸せだ」
「それは、不幸せだ」
と、どれだけデータを並べたところで
本人が納得しているなら、
あるいは、本人が納得していないなら、
感情は覆らない。
よく、愚痴り合いの中で
「えー、そんなのうちよりは幸せだよー」と、いったところで
本人が納得していなかったら、誰から何を言われようとも、不幸せなんだと思う。
話は戻るけれど
僕は、今の僕の人生に、満足はしていなくても、納得はしている。
まだまだ、できることはあるし、追い求めるものは果てしないけれど
それができる環境と姿勢と、家族の応援に、十分に納得していると思う。
パパは、ママがいてくれて幸せだし、
ママも、そう思っているだろうし
パパもママも、ねねちゃんが生まれてくれたことが、すごく幸せ。
「こうしたかった」
「こうしてあげたかった」
「こうして欲しかった」
そんな感情は、幾つでもあると思うけれど
僕らは、納得しながら生きてる。
唯一
納得できていないことがあるとしたら
ママの血が流れているのに
ぱっちり二重に、ねねちゃんがなっていないことだ。
ママの、妹の、姪っ子に当たるお子さんは
こんなにぱっちり二重なのに。
まぁ、いいか、
最近の医療技術は発達してるから。