大切な人の、大切なものを、大切にする。

悲しいニュースが、よく目に入る。

うちには、テレビがないから、文字ベースでしかないけれど。

 

もう、10年以上、

パパもママも、テレビを保有していない。

 

ママの理由は、わからないけれど

僕の理由は、感情ノイズが勝手に頭に入ってくるから。

 

悲しい事件に対する

コメンテーターさんの、悲しいトーンや怒りのトーン。

 

読み上げる原稿さえ、感情が入ってくる場合がある。

情報を得るには、その「感情」が、邪魔になることのほうが、多い。

 

本当に、取りたい情報は、自分で取りに行くから

情報を流すなら、情報だけを淡々と流して欲しい。

 

それだけの理由で、テレビをつけることを辞めた。

必要な情報や、好きな番組や映画は、

ネットでも本でも、勉強会でも、取れる。

 

 

 


話が逸れた。

悲しいニュースを見るたびに、

家族の命について、考える。

 

もし、同じ新幹線に乗っていて、目の前で誰かが傷つけられていたら

恐怖で動けないかもしれないけれど、

もしも理性が働くなら、

彼と同じことをして、命を落としていたかもしれない。

 

僕は、彼ではないので

正解は全くわからないけれど

「勇敢だった」と、評価するのは、彼の一部分でしかないだろうなと、感じてしまう。

 

それは、見方によるし、正解でも、不正解でもないだろう。

 

ただ、その方の、人生の1つのページに、

第三者から見た情報の中で、

そして特に、命を守られた方からの目線の中で

間違いなく「勇敢」と記憶に残る部分があるのは

誇らしい部分でもあるだろうし、尊敬しかない。

 

でも、つい

僕の家族が、僕が第三者の手で命を落としたことを

「勇敢だ」とだけ、評価してくれるかな・・・と考えると

きっと、もう少し複雑だろうと思う。

 

僕がいなくなった5年後くらいに、

ようやく、少しだけそう感じてくれる部分はあるのかもしれないけれど。

 


日本が、世界的に平和だということは、知ってる。

そして、平和ボケでもあることも、薄っすらと感じてる。

 

僕は、

日本が大好きだし

日本人が大好きだし

無宗教だし、右でも左でもないけれど

 

今回の事件のような

社会が生み出した個人思想のねじれによる、無差別テロを

 

「それは、仕方がない」と、思えるほど

バランス感覚もよくない。

 

 

「義憤」と、いう人もいるだろうけれど

悲しい情報を見て、僕の家族と、

僕の周りの大切な人の安全を願う気持ちを

義憤だとは、僕は思わない。

 

 


突拍子も無いことに、見えるかもしれないけれど

 

僕らにできることは、

 

僕らのバーベキューに参加してくれる人に、楽しんでもらうこと。

僕らの大切な娘を、可愛がってくれる人を、一人でも増やすこと。

僕の大切な人の、大切な人の、幸せを、一緒に願ってくれる人を増やすこと。

 

それだけしかない。

逆に、それ以上のことは、あり得ないと思っているところがある。

 

僕が、いつも、ノートに書いてきたメモ。

何回も、何回も、書いてきたこと。

 

1年前のノートは、これだった。

 

「大切な人の、大切なものを、大切にする」

 

それが、僕には、大事なこと。

 

ママが大切にしてる、ダンススタジオの仲間を、大切にする。

ママが大切にしてる、家族の幸せを、大切にする。

ねねちゃんが大切にする、ねねちゃんの友達を、大切にする。

 

そうすれば、

「大切」は、指数関数的に増える。

指数関数的という表現を言い換えると、「複利」で増える。

 

だから

僕は、僕自身の幸せのために、家族の幸せが大事で、

あなたの笑顔が大事。

 

それは、すごく綺麗に見える、僕のエゴだ。

 

偽善で、構わない。

人の為の善の、何が悪い。

 


悲しいニュースを見るたびに

家族の笑顔を、いつも考える。

 

それでも

悲しいことに、

そして、ありがたいことに

 

生命には、「寿命」がある。

 

寿命の定義は

「男性が何歳で、女性が何歳」というものではない。

 

寿命の定義は

「死ぬまで、生きること」でしかない。

そこに、平均値など、関係ない。

 

 

表現することを、「恥」と、捉える人もいる。

でも、僕は、

恥ずかしい命を、生きていきたい。

 

 

恥って、

国文学的にいうと

こんなに繊細な漢字は、なかなかないと思う。

 

あなたの、心に、耳を当てて

心臓の音が聞こえるほど、繊細な気持ち。

 

それが、恥だ。

 

 

だったら僕は

恥とともに生きるし

 

偽善とともに、生きれば、いいと思ってる。

 

命が尽きた最後には

僕の一番大切な、ママと

ママが産んでくれた、大切な娘と

 

同じ場所に、埋葬なり、散骨なり、してくれれば、ありがたい。

どちらが先に逝くかわからないけれど

大切な人の、骨の一部を、なんらかの小瓶に詰めて、

アクセサリーにしてくれてもいい。

 

「ずっと、一緒に、同じ場所でいられて、よかったね」

と、

 

 

思い続けられる家族でいたい。