20代の僕は
親の言うことを全く聞かない人間だった。
多分、いわゆる思春期の時に
僕は反抗期がなかったのかもしれない。
多少、拗ねてはいたのかもしれないけれど。
でも、母親を安心させることができる人間だったかと言うと
決してそうではなかったのだから
反抗していたのも同然かもしれない。
あ、こう言う系の投稿の時は毎回だけど、
ねねちゃんの写真はあまり関係ないです。
癒しとして、入れておこう。
公立の大学を出させていただいて
学費とか、全部親が出してくれた。
で、その大学を卒業して、僕が進んだ道は
人形劇団の役者だった。
この選択自体が、僕の反抗期だったのかもしれない。
給料は詳しくは言わないけれど
一人暮らしの家賃や光熱費を支払って、手元に残るお金は1〜2万円くらいだった。
決して、人形劇の業界を、今は下に見ているわけではない。
でも、友達ならわかるはずだから、あえて言うと
1周回って、そう思った。
ある時期は、やはり
「公立の大学まで出させてもらって、何やってるんだろう」と
思ったのは事実。
これについては、2つの面がある。
1つは、やはり、公立大学を卒業した新卒社会人としては、圧倒的に安い月給だっただろうということ。
イメージしている新卒の給料の、半分くらいだと思ってもらうと、
ほぼ、正解だと思う。
そしてもう一つは、
それでも、その給料を「固定給」として支払うために
代表はどれほどの苦労をしただろうということ。
その二つを、天秤にかけてみると
圧倒的に、感謝しかない。
本当に、劇団にはご迷惑をおかけしてばかりだったし
いろんなことを、丁寧に教えてくれたのは、間違いない事実。
今、ねねちゃんと人形遊びをしていると
改めて、人形劇団に対する感謝が起き上がってくる。
多分
その辺の父親よりも
人形を使うのは、まだうまいはずだ。
もう、本職では決して太刀打ちできないけれど。
それでも、
ねねちゃんが、人形と会話をしている姿を見ると
「この経験をしておいて、本当に良かった」と、思う。
元々は、「誰かを笑顔にしたい」という思いで飛び込んだ人形劇の道。
15年以上経って、僕の世界の中で2番目に大切な、娘の笑顔を観れただけで、幸せだ。
人形劇団を辞めた理由は、僕自身も、今となっては語りづらい。
でも、唯一、間違いないのは
血便を出して夜間救急に運ばれるくらい、ストレスを感じていたのはこの時だったということ。
当時、毎週のように実家には帰っていたけれど
その時は、実家に帰る運転中に、お腹が痛くて仕方がなかった。
脂汗をかきながら、実家で横になっている時
自分の中での限界がきて、「病院に連れて行って」と、母親にお願いをしたのを覚えてる。
今日を含めて、人生の中で、こんなにお腹が痛かったのは、この時だけだ。
タクシーだったか、母親の運転だったかは、覚えていないけれど
病院で検査を受けて、「胃腸からの出血」という診断をもらった。
正直、恥ずかしかった。
痔だったらどうしようとかさ。
でも、明らかに、真っ赤な血が便器についてたから
「これはやばい」と、思ってた。
この出来事が、人形劇団を退団することを決めた理由の、半分くらいの理由だと思う。
目に見えないストレスで、身体を追い詰めていたんだなぁと思う。
その時、僕は心身を病んでいた。
病院に行ったら、きっと、診断名が出ていたと思う。
先進医療保険と生命保険を、その後に入ることができたから
診断名を聞きに行かなくて本当に良かったと思う。
病んでいた僕がすがったのは、「癒し業界」だった。
自分を癒すために、アロマセラピーとか、マッサージとかを受けに行ってみた。
今となっては、マッサージとか、アロマセラピーとかって、
ものすごく溢れているけれど、
2004年くらいのこの時は、まだ癒しブームが始まりかけていた時だった。
自分を癒すために癒しサロン巡りをして、
「これを、仕事にしたい」って、すごく思った。
すぐに、名古屋でリフレクソロジーの学校に申し込んだ。
思えば、この時の学費の40万円も、親に借りたなぁ・・・。
このころの僕は、歯止めが効かなかっただろうなぁと思う。
親としても、どう接していいか、きっとわからなかっただろうなぁ。
自分のやりたいことを、最優先にする人間だった。
人形劇団を辞め、スクールに通い、
東京のリフレクソロジーサロンで働くために一人暮らしをするという僕を
親は、どう観ていたんだろうなぁ・・。
それから結局、
リフレクソロジーだけじゃなく、
フェイシャルエステと痩身エステを学んで、自宅サロンを開くことになる。
この経験が、良かったか悪かったかは、客観的に言えばなんとも言えない。
でも、ここでも唯一、「本当に良かった」と思えることは
母の足をほぐすことができたことだ。
そして、母の顔を、フェイシャルエステできたことだと、心から思う。
これは、2010年か、もっと前くらいに、母が描いた絵。
この頃には、身体が動かなくなっていたから、
きっと1枚の絵を描くのも、大変だっただろうなと思う。
絵の右下にある「喜」というハンコを、自分で消しゴムで作っていた。
喜ぶの下にある「口」という字が、笑っているのが好きだと言っていた。
やりたいことはいっぱいあるのに
動かなくなっていく身体。
その身体と対話しながら、どんなことを思っていたんだろう。
母の生前に、
母にリフレクソロジーとフェイシャルエステをすることができたのは
僕の中で、誇りだ。
誤解を恐れずに言うと
外に出ることが、もう難しくなっているのだから
ある人は、「もう、美容に気を回さなくても」と、思うかもしれない。
でも、
母が、親父に買ってもらった、最後の「プレゼント」と呼べる買い物は
普段、親父が絶対に買わないくらい高い、白いおしゃれな服だったと記憶している。
きっと、高かったんだろうなぁと思う。
でも、母は、その服が何よりのお気に入りだった。
母は、いつまでもキレイでいたかったと思うし、
おしゃれをして、人と一緒に話していたかったと思う。
それから、1年も経たずに、死んじゃったけれど。
母のお棺に、その服を入れることができて、
親父も嬉しかったんじゃないかなって思う。
そう考えると、人の人生は、お金じゃないね。
大切な人が喜ぶことには、できるだけのことはしたいね。
そんな、母親。
動けなくてむくんでいる足を、何度も何度もリフレクソロジーでほぐすことができたのは
本当に嬉しかった。
ほんと、指で軽く抑えるだけで、
その指のあとが戻らないの。
少しでも、血行がよくなるようにって、いつも思ってた。
でも・・・・・
どうだったんだろうな・・
血が巡ると言うことは、薬とかの成分も必要以上に巡ることになるから
もしかしたら、身体へのダメージがあったのかもしれないと、あとで思った。
でも、母親の足をこんなに触る息子は、なかなかいなかっただろうと思う。
ましてや、母親の顔をこんなに触る息子は、普通はいないだろうなぁーと、思うほど
フェイシャルエステをすることができたのも、嬉しかった。
そうそう、
リフレクソロジーは、
ねねちゃんにも関係してる。
ママが、妊娠の後期に入って
足のむくみが「痛み」に変わっていく頃
毎晩欠かさず、ママの足をほぐすのが日課だった。
「ねねちゃんに、少しでも、いい栄養がいきますように」って。
この、毎日の時間は、今でも宝物だと思う。
無駄なことがいっぱいありすぎて
周りに迷惑ばかりかけてきた人生だけれど
今思うと
無駄なことって、無いのかもしれない。
親父のことが、死ぬまで大好きだった母。
その母が大好きだった親父を大切にすることが
唯一の供養だと思ってる。
ねねちゃんの寝顔を見ると
親父もお袋も
僕や、兄貴の寝顔を
こんな思いで、見ていたんだろうなぁって
心から感謝する。