2歳児の胸ぐらを掴んで吊し上げた話

今日(昨日か)、2歳児の胸ぐらを掴んだ。

 

子どもの、特に男の子の胸ぐらを掴むのは

ぼくが22歳の時からしている行動だ。

もちろん、滅多にしない。人生の中でも、今のところは片手で収まるくらい。

 

そして当然、誇れることではない。

でも、それを辞めようとは思わない。

子どもと関わる機会が増える以上、これからはもう少し増えるだろうと思う。

 

今日は、「久しぶりに掴んだな」と、思った話。

 


 

ぼくには、「パパ」と言って遊びにきてくれる子が、ねねちゃん以外にも二人いる。

もちろん、自分の子どもはねねちゃんしかいない。

二人とも、それぞれのやり方でねねちゃんのことを可愛がってくれてる。

 

でも、関係性上「パパ」と呼んでくれる子がいる。

正確には、一人は、新しいパパがちゃんとできたから、「ヒロさん」に呼び方が変わったけれど。

 

その子は、いまは小学校2年生の子。

明日いっしょにプール行く約束してる。

 

新しいパパができても、いっしょに遊んでくれるのは嬉しい。

肩車して、公園とかいっしょに遊んだなぁ。

大好きな子だから、いっぱい遊びにきて欲しいけれど

ママのご都合もあるし、新しいパパの気持ちも尊重したいし、

時々遊びに来てくれて、成長を見れたら嬉しい。

 


 

さて、本題はもう一人の子。

ねねちゃんよりちょっとだけ年上な、元気な男の子。

 

弟が生まれたばかりだから、少し赤ちゃん返りをして甘えたがってる。

 

ぼくが、折り紙の折り方を教えていたりしても、自分でやろうとせず

「パパァ〜、やってよぉ〜」と甘えてみたり

階段を降りるのも、

「パパァ〜、抱っこして」と甘えてみたりしてる。

 

彼には本当のパパがいるし、

彼のパパとママが、どれだけ彼のことを愛しているかも知ってる。

 

本当はパパのことが大好きなんだけれど

他人の方が甘えやすいのは、きっとわかってるんだろうなぁ。

子どもなりの賢さで、甘えているんだろうなと思う。

 

 

3回に2回は、突き放す。

「自分でできるじゃん。大丈夫、できるできる。

やってないだけだよ。やったらうまくできるから」

と言っても、

「パパァ〜、やってよぉ〜」と、甘えてくるので、3回に1回は、やってあげるようにしてる。

 

 

でも、大人の目線で、「それはダメ」ということをやったときは、別だ。

「ごめんなさい」を言うまで、絶対に離さないようにしてる。

 

 

今日は、ねねちゃんが大事にしてるおもちゃを奪ったりして、遊んでた。

それ自体は、別に子どもの社会のことだから、怒る必要はない。

むしろ、子どもの時の理不尽は、心の栄養だから、めちゃめちゃありがたい。

 

ぼくには、無条件の『どうぞ』の文化はない。

ねねちゃんがどれだけ泣いていようが、主張しなかった方が悪い。

 

「ねねちゃん、嫌な時は『やめて』って言うんだよ。

貸して欲しかったら、『かして』って言おうね」と、

ねねちゃんを抱きしめながら話すと

ねねちゃんは、ウン とうなづく。

 

時々、自分の子どもがおもちゃを奪ったら、

何も判断せずに、「ダメでしょ! 返しなさい!」と、怒る親もいると聞くけれど

それは、間違ってる。

 

奪った側には、奪った正義があるし

奪われた側には、奪われた悲しみがある。

 

それは、大人では適用されない子どもだけのルールだと思う。

 

大人に対して、「奪った側の正義」は通用しない。

命を奪っておいて、「彼も正しかった」と言うつもりは、微塵もない。

命を奪ってもおかしくない環境で育ってしまった人生に対しては、

一縷の理解と同情は禁じ得ないけれど。

国分学科だから、ごめん。

一縷(いちる)は、ポジティブなことに使います。

「細くて切れそうな糸が、かろうじてつながっている」という意味なので、「一縷(いちる)の望み」とか。

ネガティブなことに対しては、「一抹(いちまつ)」を使います。「一抹の不安」とか。

でも、希望を持って、「一縷」を使っていたい。

 

 

でも、経験不足な子どものうちは、「奪った側の正義」が適用されると思ってる。

それが、なぜダメなのかを、大人がきちんと説明しないと、

それこそ、命を奪うことも正義だと主張する子どもが生まれてしまう。

 

話が逸れた。

 

ねねちゃんのおもちゃを奪った彼には、

ねねちゃんが、そのおもちゃをどれだけ大切に思っているか

二人が聞こえるように話す。

 

「そのおもちゃは、今ねねちゃんが大事に遊んでたんだよ?

それを勝手に持って行っちゃったら、ねねちゃん悲しいよ?」

 

「それは、悲しいよ」ということを、彼にもちゃんと話さないといけないし

「悲しかったよね」ということを、ねねちゃんの気持ちにも届けないといけないから

きちんと言語化するのが、大人の役割だ。

 

そうか、そうされたら悲しいんだ ということを、伝える。

そうか、わたしは悲しいんだ という感情を肯定する。

 

9割の場合は、話せばわかる。

それは、「そのおもちゃを、ねねちゃんに返してあげて」という場合もあるし

時には、「じゃぁ、新しいおもちゃで遊ぼうか」という代替案を提示して気持ちが解決する場合もある。

 

 

ぼくは、子どもが家の壁紙を破ろうが、おもちゃを投げて壊そうが、怒ることはない。

高い機材を壊されたら切ないけれど、多分怒らないと思う。

それは、その機材を触れさせた大人が悪いから。

 

今日の彼は、ちょっと甘えたい欲が強かった。

 

ねねちゃんが大事にしていた、しまじろうのぬいぐるみを、まずねねちゃんから奪った。

ねねちゃんは、それで泣いた。

 

「それ、今ねねちゃんが大事にしていた しまじろうだよ?

かして欲しかったら、ねねちゃんにちゃんと『かして』って、”交渉”してね」

 

できるだけ、”交渉”とかの、大人の言葉を織り交ぜるようにしてる。

というか、むしろ、そういう時の方が言語は脳に入るはずだから。

実体験と、言語が結びついた方が、脳には入る。

 

 

彼はその後、ねねちゃんがもう一つ抱きかかえていたペンギンのおもちゃも奪った。

ねねちゃんは、ますます大きな声で泣いた。

 

「あっくん、本当はわかってるでしょ?

ねねちゃんがいっぱい悲しいの。

じゃぁ、しまじろうか ペンギンか、どちらかをねねちゃんに ”どうぞ”しよっか」

 

と話をしたところ

彼は、真っ黒な粘土をねねちゃんに投げつけて

「これであそべばいいよ」と、言った。

 


彼が、いかにひどいか という話ではない。

ぼくは、彼のことが大好きだし、信頼してるし、愛してる。

 

彼のパパやママが、いかに教育不足かという話でもない。

彼のパパとママは、ぼくの人生の中の、大切な人だし、

彼のパパとママが、彼をとても愛していて、教育熱心なことも知ってる。

 

本当の、パパとママが、その場にいないからこその、彼の甘えだ。

 

彼に好かれるのは簡単だ。

「そうだよね、このおもちゃは、君のだよ」って言えばいい。

 

でも、ぼくには、大切な彼の人生に向き合う責任と

彼のパパとママが、彼を大切に教育している気持ちを尊重する責任がある。

 

ぼくは、彼の胸ぐらを掴んで引き寄せて、こう言った。

「あっくん、本当はわかってるよね。

そんなことされたら、ねねちゃんがどれだけ悲しいか。」

 

多くの言葉と説明は、いらない。

「彼は、本当はわかっている」

ということは、わかってるから。

 

それでも、自分が愛されたいから、他人を傷つける行為を、

彼の中で肯定させるわけにはいかない。

 


このスタイルは、ぼくが22歳の時から取っているスタイルだ。

 

自分の行為を、肯定するつもりも、別にない。

誰かから好かれるのが仕事じゃないから。

ぼくは、ぼくなりの正義で、彼らに対峙しているだけだ。

 

22歳の時のぼくは、人形劇団の見習い役者だった。

幼稚園や保育園に行って、人形劇を子どもたちに見せる。

 

子どもたちにとっては、

親でもない、先生でもない、笑顔の他人。

 

子どもは、本当に本当に賢い。

大人以上に、「力関係」を理解している。

 

ぼくたちが、幼稚園児や保育園児に、「仕事」のうえで強く言えないことを、本能的に理解している。

だから、笑顔でパフォーマンスをしようとする僕を、蹴ってみたり、叩いてみたりすることがあった。

それは、彼ら彼女らの中で、「立場が低い人たち」だからだ。

 

22歳の時のぼくは、

「いたい いたい。わぁ〜、強いなぁ〜」と、言った。

 

その日、人形劇団の代表に、飲みに誘っていただいて、

その飲みの席で、こう言われた。

 

「子どもたちが、理不尽なことをしたら、嘘をつくな。

子どもをなめるな。

子どもは、芝居を見ていても、『嘘』だとわかっている。

劇団が、黒子で顔を隠さないのはそのためだ。

子どもは、物語の世界が嘘だと知ってるんだ。

子どもは、嘘の中で遊んでるんだ。

だからこそ、子どもに嘘の上塗りをするな。

子どもの理不尽には、大人として、大人の姿勢で徹底的に向き合え」

 

当時の記憶なので、もちろん言葉はあいまいだけれど、

そんな意味のことを言われたことは、強烈に頭に残っている。

 

それから、ぼくは、子どもの理不尽には徹底的に『大人の力でねじ伏せる』ことをするようになった。

もちろん、そんな行為は滅多にない。

9割以上は、話をきちんとすれば、理解してくれるからだ。

 

でも、23歳になったくらいの時、子どもが劇をしようとするぼくをなんどもけってくることがあった。

「蹴ったら痛いから、やめて」と言っても、何度も蹴ってきた。

 

そこでぼくは、笑顔を一切消して、彼の胸ぐらを掴んで

大人の目線まで吊し上げた。

彼の足は、宙ぶらりんになっている。

 

「痛いの、わかってるよね?

やめてください」

 


この一件は、正直、未熟な自分に反省している。

もっと、スマートなやり方があったはず。

彼の気持ちに、負担をかけないような方法があったはず。

足がつかないくらい、吊るし上げる必要はなかった。

 

でも、それが人生の中で、子どもの胸ぐらを掴んで吊し上げた、最初の経験だ。

それが、後2回くらい、人生の中であるくらい。

今日(昨日)は、吊し上げていない。少し、引き寄せたくらい。

 

子どもの人生に向き合うことって

子どもに好かれることとは、次元が違う。

 

「表現」ではなく

どんな人生を生きてきて

どんな人生を生きていくのか

その姿勢をぶつける感じ。

 

 

今日、彼の気持ちが苦しかったのは知ってる。

ぼくに甘えたくて仕方なかっただろうし

小手先で考えずに、いっぱいいっぱい表現をしてくれたからこそ、起きたことだ。

 

だから、彼と公園を歩いた時、少し長めの時間をとった。

日が暮れ始めて、みんなが家に帰った後も、

彼は公園に行きたがったから、一緒に歩いて一緒に走った。

 

連れ帰ることは、簡単だ。

でも、彼の気持ちに寄り添うのは、言語や行動ではなく、「姿勢」に触れてもらう必要がある。

 

あっくんのこと、大事に思っているよ。

あっくんの人生が、とっても大切だよ。

そんな「姿勢」は、これからも伝え続けて行きたい。

 


さて、最後に、ねねちゃんの話題。

今日は、ねねちゃんにとって、理不尽なことも多い日だった。

パパとママは、それがねねちゃんの成長に不可欠だから、ウェルカムだけれど

ねねちゃんにとっては、辛いこともあっただろう。

 

ねねちゃんを、公園で抱きしめて一緒に歩きながら

彼のことを見ながら

「今日は、あっくんにおもちゃを取られて、嫌だったの?」と聞いた。

 

ウン と、頷く。

 

「そっかぁ。

でも、ねねちゃんにとっても大切なお友達だから、あっくんのいいところ、いっぱい見つけてあげようね」

と言ったら、

ウン と、頷いた。

 

ねねちゃんも、ちゃんとわかってる。

 

子どもって、可愛いなぁ。

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