愛は、
先出しジャンケン

ねねちゃんの口の周りが、真っ赤になった。

この写真は、なりかけのとき。

これよりも、もっと赤くなっちゃった。

image-愛は、先出しジャンケン | パパ部

首まで赤い蕁麻疹が出たので

慌てて近くのファミリークリニックへ。

こういう時に、歩いて30秒のところにかかりつけの病院があるのは

本当に助かる。

 

何気に、予防接種とかもそこでできるし、

汗疹とかで肌が荒れてしまった時の皮膚科も、近くにある。

 

なんで赤くなったか

という話は、一旦置いておいて

「ねねちゃんが大切だから、どんなことでもしてあげたい」という話からの、

「愛は、先出しジャンケン」という話。

 


恋は、「落ちるもの」って、時々いう。

つまり、「恋しよう」と思って、恋することはできない。

 

さだまさしさんの、『恋愛症候群』っていう歌にもあるんだけど

”恋は一種のアレルギーと考えてよい”

 

恋する特定の人や、特定の条件が、人によって違う。

何かの食べ物や、何かの花粉に、全員が反応しないように、

恋も、ある条件下でしか発動しなくて、

それは人それぞれ違う。

 

つまり、恋は「状態」をあらわしている。

この辺は、ソクラテスも言ってた気がする。

 

じゃぁ、愛は。

愛は、行動だ。

 

「こうだから、好き」

「こうだから、嫌い」

「好きになってくれるから、好き」

「好きになってくれないなら、嫌い」

それは、恋の範疇だと思う。

相手の状態によって、自分の状態が左右されてしまう。

 

愛は、相手の状態には左右されない。

素敵でも、寝ぼけてても

笑ってても、泣いてても

愛することができる。

「大切だよ」って、いうことができる。

それを、行動で示すことができる。

 

そして、何よりも、

愛は、返ってこない(・・・ことも、ある)。

 


愛について、色々な角度から考えたりするけれど

僕の中で、一番しっくりきてるのは

「愛は、先出しジャンケン」という仮説。

 

いつからだろう、そう思うようになった。

 

恋しているときは、負けたくなくて、

相手の状態に左右されちゃうから、

同時に出そうとする。

「好き」をいう前に、「好き」と言われたくなっちゃう。

 

でも、愛が先出しジャンケンだとしたら

勝つか負けるかは、相手次第。

その段階で、自分の中の答えが出ているから

負けたとしても、全く悔いることがない。

 

だって、「グーを出したかった」わけだから。

それって、「好かれてても、嫌われてても、私は好き」と、伝えるのと一緒だと思う。

 

恋のときは、勝つことに意味があるけれど

愛のときは、自分が行動できることに意味がある。

 

どんな状態でも、私はこうすると、言えるのが愛だと思ってる。

 

 


さて

なんでこう思ったかというと

ねねちゃんは、どうやら大豆アレルギーが発症してしまった。

 

ここで、2つのポイントがある。

1つは、「うわぁ〜・・今後どうなるねん」という焦り。

もう1つは、「なんで離乳食に大豆を食べさせたの!?」という憤り。

 

でも、この2つは愛で解消できる。

 

アレルギーを持たないに越したことはないけれど

愛するねねちゃんが、何らかのアレルギーを持ってしまったとしたら

色々と悩んだり、考えたり、後悔したりはするだろうけれど

最終的には、「それでも大切」という選択をとり続ける。

 

「とり続ける」ということが大事で、

その場だけ、そう思うこととは違う。

 

もう一つの、なんで離乳食に・・という部分は

僕自身も、知識不足だったし、関心不足だったから、起こったことだ。

誰かだけを責めることはできない。

 

「ごめんね、全部やらせてしまっていたね。

僕も、離乳食について勉強するから、もう一度見直そうね」

ということで、ねねちゃんの離乳食は振り出しに戻って、10倍粥とカボチャあたりから再開する。

 


話は、あっちいったり、こっちいったりだけど

恋するよりも、愛する方が楽だ。

 

相手の状態を、深く考えなくてもいいから。

愛を伝え続ければいいだけだから。

 

それでも、もし

相手を愛することが不安だったなら

まずは自分から愛してみればいい。

 

そうすれば

相手を愛せる自分を、愛せるようになる気がしてる。

 

 

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